たとえば心を動かす出来事があって
「素敵だった」と思ったり、
↑こうやって文字にしたとたんに
うわ、「素敵」とか!
こんなチープでざっくりな感じじゃなくて!
もっとこう、いい感じだったのにー
と、がっかりすることって
自分はよくあるのですが・・・どうですか?
よく使う言葉ってわりとバリエーションが少なくて、
組み合わせたり何かを引用したり
たとえを用いようとすればするほどおかしくなって・・
まあ、じゃあ。「良かったです」
みたいなことで片付けて置こうってことになるのですけれど。
言葉があってはじめて認識されることってあるような気がするから、じゃあ逆に言葉のないところにどんなものがあるのか、じっと見てたら見えてくるかなあ?とても難しいです。
でも、言葉がカバーできない世界にも、音楽や絵画や書などの芸術が存在して、それらに無数にバリエーションがあってよかったと思います。
なぜなら、必ずどこかに自分の気持ちのヒダヒダに寄り添ってくれる表現があって、出会えば共鳴して心の奥にあった言葉にならなくて認識されていなかったものまで見つけてくれるし、人生が豊かになる(ような気がする)し、勇気が持てるようになると思うから。
みんなと同じものを見ているだけでは、みんなとの連帯感は持てて思い出に残るだろうけど、その表現が自分のために用意された(と錯覚させるほどの)フィット感がなければただそれだけで過ぎていってしまう。好みはそんなに紋切り型に数種類に分けられるものではないから。ひどい場合には傷ついてしまうのかも。とあるアイドルグループのファンにうつ病の人が多く見られると、知人が臨床経験から話していました。それは商品だから、楽しくはあっても心を救う効能が長く続かないのかもしれない。
自分のために用意された(と錯覚させるほどに)自分の魂によりそって勇気づけてくれるような表現をみんながたくさん見つけられるといい。
で、表現ができる人はその技量に応じていくらでも温かいぬくもりのあるものを、自分と、自分と同じ魂の震え方をする誰かのために作り続けられるといい。
自分もなにかそんな制作ができたらいいなあと思って。
(ただし技量に応じて)
あなたのそばにあなただけのアートを。
・・・なんのコピーやねん。
そういうわけで今日は
どうしようもなくお気に入りの本やらCDやらを整頓したりしながらうっとりとそんなことを思っていました。
イラストは道頓堀。とある会議のポスター案。
ここの看板のバリエーションもたのしい。